野澤監督の札幌ロケハン報告です(撮影:2月)

冬の札幌 野澤監督 取材記録


 映画へのご支援感謝申し上げます。野澤監督からのメッセージ動画をご覧ください。
 野澤監督は、冬の札幌、遠友夜学校があった豊平川周辺、時計台、大通公園、北海道大学の正門からクラーク博士の胸像、新渡戸稲造博士の胸像、そして、ポプラ並木、札幌第二農場と歩き回りました。新潟県の六日町で育った監督にとっては、雪道は慣れていても相当疲れたと想像します。

 さて、新渡戸が札幌で過ごした時期を想像しました。新渡戸は、札幌農学校の2期生として1877(明治10)年9月に15歳で入学し、1881(明治14)年7月に19歳で卒業しました。卒業後、開拓使御用掛勧業課で2年間勤務し、1883年(明治16)年5月21歳の時に札幌を離れ上京しました。
 1891年(明治24)年、メリー夫人と結婚し、夫人とともに29歳で札幌農学校教授に就任するため札幌に戻ってきました。そして、1894(明治27年)32歳の時に遠友夜学校を設立しました。1897(明治30)年10月、35歳の時に札幌を去っています。新渡戸は、15歳から21歳までの6年間、29歳から35歳まで6年間を札幌で暮らしました。

 多感な10代後半、そして飛躍の30歳前後、札幌にいたんですね。札幌では、神経が衰弱するほど学び、教え、様々な人との出会いがありました。そして、1歳から9歳まで過ごした故郷盛岡の母(せき)を含め育ててくれた人達に思いを馳せ、豊平川の河辺を歩き、遠くにいつも見える藻岩山、手稲山を見ながら、盛岡の中津川、北上川、岩手山を思いおこしていたのだろうと想像します。私は、盛岡の景色と札幌の景色、そして新渡戸が療養した神奈川県の鎌倉、静岡県の沼津、群馬の伊香保温泉には、何か共通の景色(山、川)、樹木の匂い、音(川の音)があったように思います。

 以下は、札幌の人口の推移を示す国勢調査による統計資料です。どの程度人口を補足しているのかわかりませんが、相当なスピードで人口が増えています。

<国勢調査資料>
https://www.city.sapporo.jp/toukei/tokusyu/documents/22kokutyo01.pdf

『北海道を開拓したアメリカ人』(藤田文子 新潮選書)によると、1882(明治15)年までに開拓使として雇われた外国人は80人(アメリカ人)は50人だったそうです。新渡戸稲造は、急速に人口が増え、活気のある札幌で、異文化に触れ、欧米の学問、技術を吸収していたのでしょう。

コメントがあれば、以下のコメント欄に記載願います。

(並木P)監督は、北大キャンパス内にある新渡戸稲造の前で映画の完成と成功を祈り、誓いました。


監督は、札幌農学校(北大前身)の初代教頭のウイリアム・スミス・クラーク博士の胸像の前で映画製作を報告しました。
1876(明治9)年7月31日札幌到着、札幌農学校開校式(8月)、1877(明治10)年4月札幌出発。意外と短い期間です。
クラークの精神である『大志を抱け』、『紳士たれ』、『自主・独立』、『自由・平等・博愛』は、新渡戸の教育思想に影響を与えてます。
そして、リンカーンの思想でもありますね。
北大 正門から観た景色
北18条以北の札幌第二農場と呼ばれている付近を歩き回りました。
モデルバーン(模範家畜房 昭和44年に国の重要文化財に指定)

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