お知らせ
日付(2024年) | 内容 | 詳細 |
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11/20 New | 河北新報ONLINEに掲載されました。 | https://x.gd/1w6cF |
9/16 | 神奈川・福島での上映情報を更新しました。 | 上映情報はこちら |
8/29 | シネマハウス大塚での追加上映が決定しました。 | https://x.gd/TJPyZT |
8/29 | 朝日新聞朝刊(大阪版)で映画が紹介されました。 | https://x.gd/H4p1C |
8/2 | 東京新聞TOKYO Webで映画が紹介されました。 | https://x.gd/4hfQU |
7/16 | 北海道新聞で映画が紹介されました。 | |
6/13 | 東京都推奨映画に選定されました。 | |
6/8 | 札幌シアターキノでの上映期間が1週間延長決定! | |
6/8 | 北海道放送(HBC)で映画が紹介されました。 | https://x.gd/XpW1x |
6/8 | 北海道新聞朝刊で映画が紹介されました。 |
上映情報
地域 | 映画館 | 時期 | 詳細 |
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神奈川 New! | シネマ・ジャック&ベティ | 11/2(土)~11/8(金)(13:50開始) 11/9(土)~11/15(金)(12:20開始) | https://x.gd/i8F5G |
福島 New! | フォーラム福島 | 11/29(金)~12/12(木) | https://x.gd/IXBtEc |
過去の上映情報
地域 | 映画館 | 時期 |
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札幌 | シアターキノ | 7/6(土)~7/19(金) |
大阪 | シアターセブン | 8/31(土)~9/13(金) |
函館 | シネマアイリス | 9/20(金)~9/26(木) |
群馬 | 前橋シネマハウス | 9/21(土)〜10/11(金) |
東京 | シネマハウス大塚 | 9/7(土)~10/27(土) |
新渡戸稲造が1931年、遠友夜学校を訪れた際に残した教育方針
”学問より実行”
新渡戸稲造(にとべいなぞう)と「遠友夜学校」
1862年(文久2年)~1933年(昭和8年)、享年72。現在の岩手県盛岡市、南部藩士・新渡戸十次郎の三男として生まれる。米国で出版されたBUSHIDO The Soul of Japan』(邦題:『武士道』)の著者として知られる新渡戸は、大学教授や学長を務め、教育者としての業績を残している。新渡戸が32歳の札幌農学校教授時代に、貧しくて学校に通えない人々のために妻メリーと始めたのが「遠友夜学校」である(1894年/明治27年)。
生涯で唯一、新渡戸が創設した学校で、授業料無料•男女共学で年齢制限なしという当時としては画期的な学校であった。1944年(昭和19年)の閉校まで50年間で約1,170人が卒業し、富や名誉より人格形成を重んじた教育であった。
受け継がれる遠友の精神
「遠友夜学校」に込めた新渡戸稲造の想いは、現在どう継承されているのだろうか?その答えを探るドキュメンタリーの旅が始まる。「遠友夜学校」の卒業生は誰も生存していない現在、その痕跡を求めて卒業生の子供たちに出会い、父母から聞かされていた「遠友夜学校」の生活を彼らが語り始める。北海道大学にはボランティアサークルとして市民講座「平成遠友夜学校」が開設され札幌市民に門戸を開いている。また1990年に「札幌遠友塾自主夜間中学」が創設され、遠友夜学校の精神を今に受け継いでいる。教育を受けることができなかった人たちが、学ぶことで自己を取り戻し、夢や希望を叶えている姿が美しい。学ぶことが生きる証と喜びになっている。東京では、子供たちに新渡戸の精神を伝える「こども武士道」の教室が開かれ、130年前に創られた小さな夜学校の教育が現代に蘇って
いるかのようだ。今をどう生きればいいのか?映画には、そのヒントが散りばめられている。
ドキュメンタリー映画専門サイトに紹介されました
監督からのご挨拶
ドキュメンタリー映画「新渡戸の夢~学ぶことは生きる証~」がようやく完成しました。3年がかりでしたが、これも応援してくれる皆様のおかげです。この場を借りてお礼申し上げます。
武士道の著者として知られる新渡戸稲造のあまり知られていない面に焦点を当てることができました。新渡戸が、130年前の明治時代に札幌に創ったのが「遠友夜学校」。授業料はただ。学びたい人は誰でも入れる学校。その精神と魂が、現代どのように伝わっているのかを検証したいと思いました。
現役の教職に携わる人々に観ていただきたい!
新渡戸稲造の教育の精神や哲学とは何か?それが現代にどう継承されているか?
舞台は、札幌遠友塾自主夜間中学。毎週水曜日の夜、ご高齢の学生たちが黙々と学ぶ様子がまぶしく映ります。算数、英語、社会・・・人生経験の長い人たちが何を学ぼうとしているのか。そして、ボランティアで教える人たち。ここでは、先生とは呼ばない決まりです。多くは、元教師ではない人たちです。なぜ学ぶのか?どんな気持ちで教えるのか?そこには、生徒と先生のあるべき姿が映し出されています。現役の先生方に是非見ていただきたい作品です。私たちが、忘れていたことを思い出すはずです。
まずは、ここまで。ネタばらしは、ご勘弁願います。
映画上映会場で待っています。全国に広がる予感がします。
野澤和之
<キャスト・スタッフ>
監督:野澤和之
出演:工藤慶一 工藤朱美 藤井茂 藤田正一 佐藤邦明 須田力 濱田ヒデ
坪谷彰子 鈴木清子 岸田幸夫 田中裕子 今久美子 小林久倫 黒澤晴一
岸田久 鹿沼秀夫 高橋和の助 細井眞澄 樋野興夫 札幌遠友塾自主夜間中学 平成遠友夜学校 いおぎみんなの学校 大田区立洗足池小学校
新渡戸の声:杉山由安(ビートワン)
ゼネラルプロデューサー:並木秀夫 撮影:〓橋暢 編集:平井将人 MA:竹山公一郎 studio CATS 音楽:合田享生・t&kプロジェクト
エンディング音楽:Hug2Fooo!? 広報:伊藤隼 yms inc.
2024年日本/カラー/DCP/ステレオ/91分
配給協力:協同組合ジャパン・スローシネマ・ネットワーク
製作・配給:c2024 新渡戸の夢映画製作委員会
新渡戸の夢映画製作委員会 野澤和之、並木秀夫、上田幸伺、宮田昌利、田寺順史郎、渡辺美砂子
新渡戸稲造の物語
新渡戸基金 理事長 藤井茂(監修)
新渡戸稲造 1862年9月1日(文久2年)~1933年10月15日(昭和8年) 享年72
〇学び続けた青春期
1862年9月1 日、南部藩士、新渡戸十次郎の三男として盛岡市で誕生。5歳で父が死去。9歳で上京。叔父の太田時敏の養子となる。11歳で東京外国語学校英語科入学。15歳で札幌農学校に第2期生として入学。卒業後、開拓使として農業開拓の仕事に就くが1883年(明治16)21歳で上京し、東京大学選科に入学。入試で志望動機を聞かれ、日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいという意志から、「太平洋の橋になりたい」と答えている。しかし、1年後、東京大学を退学し米国へ留学した。アレゲニー大学、ジョンズ・ホプキンス大学大学院、その後、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で学ぶ。新渡戸に大きな影響を与えた出来事として、1878年(明治11)16歳で、キリスト教の洗礼を受ける。また、1880年(明治13)18歳の時に、新渡戸に大きな期待を寄せた母勢喜が死去した。
〇教育者としての本格スタートは札幌農学校
1891年(明治24)29歳で、札幌農学校の教授となる。学内では、農政学、経済学、植民学、農業史、農業本論、英文学、独語、英語(予科)、倫理(予科)など週20時間にのぼる講義を担当する。学外では、北鳴学校(北海道初の私立中学校)の教頭、スミス女学校(後の北星女学校)の経営支援を行っている。1894年(明治27)32歳で、帰国直前に結婚したメリー夫人のアメリカの実家から送られてきた大金で、遠友夜学校を建てて校長となる。札幌の6年間は、弱者に寄り添うことに奮闘を惜しまず、常に学生と向き合っていた教育者であったことが伺える。1891年(明治24)29歳で、アメリカ人、メリー・P・エルキントンと結婚とその翌年の長男遠益の出生後8日目の死去は、彼の生涯に大きな影響を与えた。
〇世界的な名著『武士道』の著者
1900(明治33)38歳、日本人の精神、信条を欧米人に紹介するために、『BUSHIDO:The Soul of Japan』を米国フィラデルフィアで発刊。米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトも愛読者の一人であった。大統領は5人の子供たちに対して、「日本の武士道の高尚な思想は、われわれアメリカ人も学ぶところがある。ただし、「主君に対する忠誠」という箇所は「アメリカ国旗に対する忠誠」と読み替えるように」と言ってこの本を勧めたという。『武士道』は、時代背景により、多くの国で翻訳され日本人、武士道を理解するための書籍として購読された。
〇台湾での砂糖産業の振興
その頃の日本は、1895年(明治28)日清戦争に勝利し台湾を手に入れ、植民地としてその統治を進めていた。欧米などの搾取型の統治ではなく日本流の統治をしようとしたが、その統治はうまくいかなかった。後藤新平は、農学の専門家で欧米の農業経営を学んでいる新渡戸稲造を台湾の産業を発展させるために、1901年(明治34)2月台湾総督府技師として招聘した。7カ月後の同年9月に、新渡戸は、甘蔗の生産、製造及び市場の3方面にわたる意見書「糖業改良意見書」を提出した。その後、その意見書を確実に実行していく。児玉源太郎や後藤らリーダーシップと新渡戸の専門性、実行力により、台湾の糖業は世界のトップクラスへ発展していく。これが、新渡戸稲造の大きな業績の一つになった。
〇再び教育者として
京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長、女子経済専門学校(現在の新渡戸文化学園)初代校長を歴任した。女子英学塾(現在の津田塾大学)の顧問も務める。第一高等学校校長時代に、新渡戸は、膨大な読書量と国内外の様々な分野の人達との幅広い交流から、学生たちに、「センモンセンスよりもコモンセンス」という言葉で、専門知識よりも常識、幅広い教養、社会性(ソシアリティー)が大事と教え、「センス・オブ・プロポーション」の言葉でバランス感覚の重要性を説いた。薫陶を受けた学生には前田多門(戦後文部大臣)、矢内原忠雄(東京大学総長)、森戸辰男(文部大臣)、田中耕太郎(最高裁判所長官)などの戦後のエリートを育てた。
〇国際平和と国際協力の追求した晩年
1920年(大正9)58歳から1926年(昭和元)年64歳まで国際連盟事務次長を務めた。この間、オーランド諸島領土紛争収拾案の承認、知的協力委員会の開催に尽力し、世界平和と協力を追究した。日本と世界を取り巻く環境が厳しくなる中、1929年(昭和4)太平洋問題調査会理事長に就任し、日本の団長として国際平和と協力を追求した。しかし、日本が国連を脱退表明した1933年に、困難な状況下で平和を追求したが、1933年10月15日ビクトリア市で生涯を閉じた